天に星 地に花

B5のノート

「もくさん」の話

子どもの頃、悪戯をしたり駄々をこねたりすると、決まって親は “もくさんが来るよ!” と脅した。

「もくさん」は今で云うところのホームレスで、昔は「お乞食さん」と言っていたが、ウチの近所では何故か「もくさん」と言っていた。

「もくさん」は「モクさん」かもしれないし「杢さん」だったのかもしれない。男の人だった。

近所をウロウロしていたもくさんは、いつも同じ人だったように思う。山田さんという広い敷地のお屋敷が空き家になっていて、舗装されていない道のカーブのあたりから少し引っ込んで入り口があり、鬱蒼と茂った庭木が暗く奥に続いていて、昼間でもちょっと恐い場所があった。もくさんはよくその辺りにいた。

子どもの常で、大人の目を盗んで空き家になっている山田さん宅にはよく忍び込んだ。入り口こそ暗いが、敷地内に入ると思いがけず明るく広い空間が広がっていた。大きな平屋の家は厳重に戸締りがしてあったが、もともと大きな農家だったらしく、広い軒先の小屋なども建っていた。

屋敷と言っていいほどの平屋を取り囲む庭は、柿の木もあればイチジクの木もあり、四季を通して虫と花の楽園だった。ひとりでは絶対に近づかないけれど、友達が4人も集まると、あそこに行こうと示し合わせる場所だった。

食べられる実のなる木が数種類植えられていた敷地内で、今思うと、もくさんは寝起きしていたのかもしれない。

親が脅すので条件反射的に怖がっていたけれど、彼はただ道端に座り込んでいたり、のろのろと歩いているだけで、子どもには何の興味も示さなかった。

彼の風態はいかにもだった。怖いから近寄ることは無かったけれど、例えば母親と買い物に行く途中や、友達とじゃれ合いながら歩いている時にすれ違うことはあった。

そんな時、母の手にしがみつくようにしながら、或いは友達と道の端に寄りながら、恐いもの見たさで横目でもくさんの様子を見つめた。

伸び放題の髪はところどころ固まり、何年も櫛を通していないのは明らかで、土ぼこりが黒い髪を茶色くしていた。焦げ茶色のような、黒に近い紺色のようなコートを着て、その下の服は擦り切れ、穴が空いてボロボロだった。そして大きな頭陀袋のような物を担いでいた。どんな顔なのか分からないほど垢や土で真っ黒な顔には髪が被さり、全体的に埃っぽかったが目だけが潤っており生気を感じた。そしてとても臭かった。

親たちは子どもが言うことをきかないと、「もくさんが来るよ!」とか「人さらいが来るよ!」と言って脅したので、近所の子どもの間では、もくさんは人さらいで、あの頭陀袋に子どもを入れてさらうのだ、なんていう話がまことしやかに流れていた。いつの時代でも子どもというのはちょっと怖い都市伝説が好きなものだ。

私の子ども時代には、もくさんみたいな人は町中でよく見かけた。同じ人かと思うほど風貌は似通っていた。
お祭りに出かけると屋台が並ぶ参道の片隅に、片腕や片脚のない軍服を着た人が物乞いをしていた。傍には看板のようなものが立っていて、そこには墨で黒々と癖の強い文字で何かが書かれていた。何と書いてあるのか読めなかったけれど、その筆で書かれた文字の形や墨の濃さかから怒りが感じられた。怒りと、孤独と。

思い返せば終戦からだいぶん経っていたけれど、あの人たちは果たして本物だったのか。終戦記念日が近づくとテレビはこぞって戦争の特番を放送していた。貧しさは分かりやすくすぐ近くにあって、親たちはそれを実体験した世代だった。

親は教育者だったが、人格者ではなかった。もくさんのような人たちに手を差し伸べるでもなく、ただ軽蔑と侮蔑と恐れの感情を持っていただけに見えた。

父親は東京の出で子どもの頃には戦争を経験しており、すぐ上の兄は兵隊として戦場で戦ったという。貧しくは無かったが豊かでもなく、戦後は大学に通えたがギリギリの暮らしだったらしい。

母は兄弟姉妹がたくさんいる中の長女で勉強も出来たことから家族の中で唯一大学へ通ったという。家族を背負っての勉強、家から最寄りの駅までの道は舗装されておらず、雨降りの時などは革靴を鞄の中に濡れぬように入れて、駅で足を洗ってから革靴に履き替えたという。そんな時代が、この日本に確かにあったのだ。

父も母も貧乏を憎み、ゆえにもくさんを軽蔑し恐れたのだろう。彼はどんな人生を歩み、もくさんになったのだろう。
彼の目には、この世界がどのように映っていたのかな。。。

丸太の電柱がコンクリートの電柱に変わる頃、いつしかもくさんも見なくなった。